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第一章 フラ

 ハワイアンの系図、神話、伝統をくまなく研究し、そこからハワイアン達自身や彼らがどのようなものに興味を持っていたのか、そして彼らのその情熱などを理解しようとしても、それが非常に困難なことだということに気づかされます。しかし、フラとそこにある人々の感情や研ぎ澄まされた感覚、ハーラウ(フラの練習場)に存在するものたちを研究するとハワイアンの心の扉にたどり着くことができるのです。ハワイアン達が創り出す歌や彼ら話の中から知り得る彼らの深く純粋な誇り、それらを現代語で表現することはまるでアダムとイブの愛の巣を覗き見しているかのようで気恥ずかしくなります。もしこの子供のようなたどたどしい言葉とつたない絵をなんとかして太古の景色を表現することができれば、自分は世界の楽園といわれる時代を論じるに値すると思えるかも知れません。

 古代のハワイアンについては不明な点が多いのですが、世界の始まりの頃を振り返ってみましょう。ハワイアン達の遠い祖先はアーリア人、少なくともアジア系の血筋ではないかと思われます。その発展の過程を見るとアングロサクソン系が運命的にたどっていった確固とした統制のとれた血筋とは一線を画していたようです。

 批判的なモラリストの精神でフラを学ぼうとしても、そこから何も得ることはできません。あるいは純粋な民族学者であればハワイの踊りと、物憂げな表情のインド舞踊や芸者の類似性に喜びを見出すかもしれません。しかし人間を愛する者としてフラと向き合うとき、人は五感に訴えるフラの動きと叙情的な歌詞に至福を見出すことでしょう。

 フラはもともと宗教儀式であり、詩、音楽、踊りが組み合わされることによって、その芸術性が人々の心を癒してきました。フラにおける人生観は素朴で美しく、それは神や女神が人間のように地球上で暮らしたり、人間が神のように扱われた神話の時代を称賛するために捧げられ、そしてそのミステリアスな歴史は切っても切れない古い神話とのつながりと共に複雑に絡み合い語られてきたのです。歴史と神話が織り込まれた色合い豊かな布は、詩人の想像力や哲学者の思考をかきたて、乾いた魂を潤すだけでなく、感覚主義者の炎色の絵や熱く語る言葉、カフナの祈りや呪文、ポリネシア神話の秘法や神器、そして国の歴史にとっても大きな意味を持っていました。それは他の国においては詩やドラマ、オペラ、文学といった形で表現されるのでしょう。

 ハワイの人々はとても信心深く、身の回りの状況を宗教的な感覚でとらえ、タブーで行動を制限し、たくさんの祈りと生贄を捧げます。表現力豊かな彼らの考えは映像として浮かび、耳には自然からの様々な声が聞こえ、そこから教訓を得るのです。私たちはそれを彼らの芸術の中に見ることができます。喜びを感じるものに従順で敏感な情熱の申し子であるハワイアン達は音楽的才能にもあふれており、彼らが物事を語る上で、その状況にふさわしいリズム、メロディー、そしてハーモニーがあるのです。太古の人々のこの素晴らしい功績、それが本能的なものであったとしても、その情熱の奏でる音から逃れる事などできないでしょう。遠い古代から受け継がれてきた歌や詩は、泥にはまっても、もがいたりのたうったりしない純真な子供のように無垢な感性から生まれ、現代よりもずっと崇高な目的がありました。

 著者が以前に年配の哲学者から聞いた逆転の発想で考えれば、時代の最先端のものこそ優美で明知あふれる古代の音楽に立ち返ることで大切な何かを得ることができるのです。それは、古代の人達が私たちに何かを与えるというよりは、私たちがその中にある価値あるものの存在を見つけることができるかどうかという問題なのです。ゲーテやソーロー、キプリングが理想郷に投げかけた光には彼ら自身のありのままの姿が映し出されています。

 この時代の心や感情を見誤らなければ、私たちは今思想の種や時間の流れから救い出すことのできるかけがえのないものを腐らせることのない時代を生きています。私たちは草原の水牛や島の鳥が絶滅することを嘆きますが、いくらか豊かさを欠いても人生は満たされていると考えます。しかし、それがその土地に暮らす人間であったり、海に浮かぶ島々であればどうでしょう?人間の精神の軌跡はそれなくして完全であると断言できるほど、彼らの功績は意味のないものなのでしょうか?

 古代ハワイにおけるダンスの存在の意味と、現代社会のダンスの持つ意味の対比を避けることはできません。古代のハワイアン達は、今の快楽主義社会のダンスのように娯楽のためや個人的な場でダンスをすることはありませんでした。ペルシャ王国のように、しかし全く違った理由で、ハワイアン達はその為に雇われ訓練された人達に任せました。それはフラの芸術性や演習の評判が悪かったからではなく、歌と踊りの両方において厳しい訓練と特別な教養を必要とし、宗教儀式でもあった為にタブーを遵守し司祭の儀式を行う神聖なものとして保護されていたからです。

 古代ハワイにおけるフラは、一般の娯楽、スポーツ、演芸とは平行線をたどり、ハワイアンの英知に強い光を当てています。私たちは昔のフラを、まるでイギリスの田舎で春を喜んだり収穫を祝って叫び手に手を取ってステップを踏むような、あるいは雰囲気を感じるがままに歌や踊りで表現する自然崇拝者のように考えがちですが、ハワイアンが踊るフラの持つ意味は違います。フラは厳粛な宗教の伝統に守られた意図を有し、首尾一貫した傑作なのです。この独特な性質を持つフラはハワイの多様な娯楽やスポーツに属するものと見られますが、秩序のない子供の遊びとは一線を画さなければなりません。私たちが違和感なくハワイアン達を自然崇拝者と概括し一般論として述べる考え方は、私たちが属することを誇りに思っている先進的社会よりも不自由で不自然なことなのです。テルプシコレ(ギリシャ神話の歌舞の女神)の神殿へ近づく道のりがもっと守られたものであったならば、人間の喜びはより深く自由なものであったに違いありません。

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